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2024.06.27News

第一次世界大戦後のアドラーのウィーンの教育界への貢献について

 第一次世界大戦後のアドラーのウィーンの教育界への貢献について

 

 NHK連続テレビ小説「虎に翼」を観ていると、戦後の日本の荒廃状況の中で家庭裁判所が創設され、寅子が活躍していく状況は、第一次世界大戦後のアドラーのウィーンでの貢献を連想させます。今後の日本の教育に示唆するところが大きいとも言えます。

 

 そこで、ニュースレター(当社会員限定会報)の「優越性と共同体感覚-アドラーの伝記」(アルフレッド・アドラー著、ハインツ&ロウェナ・アンスバッハー編、岩井俊憲&永藤かおる訳)のNo.59(3月号)からNo.63(7月号)までを第一次大戦後の10年間、アドラーをはじめとするウィーンの個人心理学者たちが多くの物質的な困難にも関わらず、特に(1)成人教育(2)学校改革(3)教師のトレーニング(4)児童相談クリニック、について顕著な足跡を残したことについてまとめて掲載します。

No.59 『個人心理学の応用』と(1)成人教育について

 

『個人心理学の応用』

 第一次大戦中の不規則な仕事や、多くの個人的な変化を経て、新しい、より広い視点に直面したことは、アドラーたちのグループにとって良いことでした。その結果、アドラーがそれまでに打ち立ててきた体系が徹底的に再考され、議論されるようになり、そのさまざまな部分の相互関係について、より深い理解が得られるようになったのです。自分たちが正しい道を歩んでいるというグループの自信とともに、より広い範囲に役立つ新しい洞察と方法がもたらされたのでした。オーストリア、とりわけウィーンでは、戦後10年間、多くの物質的な苦難にもかかわらず、より良い未来のために働こうという強い意志と、社会的進歩に対する愛情に満ちた関心、そして時には熱意が広まっていました。個人心理学者たちが、自分たちの役割を果たすべきだと考えたのも無理はないのです! 

 

 このことは、次の4つの点で顕著な足跡を残しました。

 

(1)成人教育

(2)学校改革

(3)教師のトレーニング

(4)児童相談クリニック

(1)成人教育について

 

 この実践的な仕事においても、アドラーは指導者となりました。その第一歩は、当時ウィーンで最も重要な成人教育機関であったフォルクスハイムでの定期講義への招待を受けたことでした。ここで初めてアドラーは、受動的な聴衆としてではなく、能動的かつ創造的な関心をもって参加している聴衆を前にして、それぞれ違う個性の、大勢の人たちを魅了する能力を自覚しました。出席者は最初から驚くほど多く、このような講演会の一般的な事例に反して、講義ごとに減るどころかどんどん増えていきました。

 聴衆の中には、多くの教師、親(父親よりも母親の方が多い)、心理学を最も重要な知的関心事としている様々な階層の男女、そして特徴的なことに、アドラーの講義に学問的カリキュラムでは得ることができなかったインスピレーションを見出した多くの大学生がいました。

 アドラーは長い間、一方通行の講義にとどまることはありませんでした。聴衆は質問を投げかけたり、特別な問題を提起して議論したりすることが許されました。フォルクスハイムはウィーン近郊のアルプス山脈でサマーキャンプを行うこともあり、アドラーはそこで1週間以上、特に関心のある学生たちの小さなサークルと生活を共にしたのです。

 

No.60 (2)学校改革―その1

 

(成人教育も重要ですが)個人心理学にとって最大の挑戦は、ウィーンの教師や親個々にというより、もっと包括的なやり方で公教育に影響を与える可能性にありました。第一次オーストリア共和国下のウィーンは、社会主義者であるオットー・グレッケル教育委員会委員長のリーダーシップで、組織、カリキュラム、メソッドの根本的な変更である学校改革が行われた都市でした。当初から、個人心理学は少なくとも心理療法の問題と同等の教育問題への関心を示していました。それぞれの分野がもう一方の分野を利用するために、無視できない機会が提供されているように思われました。

 教育方法に関するウィーンの学校改革の基本原則は、個人心理学の教えと多くの共通点があったため、協力はさらに可能であると思われました。これは一種の個人的な結びつきによるもので、教育プログラムを策定した何人かが個人心理学者でもあったからです。また、部分的には ―そしてこれはおそらくさらに重要だったのですが―大規模な学校システムにおける進歩的な教育の実際的なニーズにより、そうなるのが自然であったように、個人心理学の基本的な考え方に非常に近い方針がとられるようになったのです。

 進歩的な教育とは、子どもにとっての自由を意味し、旧来の方法が要求する単なる受け身な態度ではなく、自発的な活動を勇気づけることを意味します。しかし、1万人近い教員を擁する大都市の公立学校制度では、教員養成のための大学で旧来の方法で仕事をするように訓練された教員ばかりで、教員の自由と子どもの自由に対し、興味深いと思われるものの危険な混沌を生み出す恐れがあるような無制限の実験に乗り出すことはできませんでした。そのため、ウィーン学校改革は当初から、大胆な極端な試みを避けるように配慮していました。

 

No.61 (2)学校改革―その2

 

 自由は秩序の対極にあるものではなく、秩序によって補完されるべきものでした。子どもを勇気づけることは、同時に子どもが責任の意味を学んで初めて建設的に使われるように思われました。旧来の権威的な規律は、規律を撤廃することに取って代わられるものではなく、学校で行われる共通の作業の必要性から、子どもたち自身がそのルールを作り上げるような規律に取って代わられなければなりませんでした。このような「勇気づけ」と「責任」という考え方の組み合わせこそ、ウィーンの教育者と個人心理学との協力が可能であるばかりでなく、自然なことであると思われる土台となったのです。

 とはいえ、個人心理学を教育委員会の公式な心理学としただけでは、この協力関係は成立しませんでした。1920年代、ウィーンは近代心理学の最も重要なうちのひとつ、というより、ウィーンこそが最重要中心地となりました。ウィーンには、すでに国際的な評価を確立していたフロイトと、急速に国際的な評価を高めていたアドラーがいました。そして、学術的な心理学の最先端を行く2人の著名な代表、カールとシャルロッテのビューラー夫妻がいました。

 ビューラー夫妻の任用は、大学全体が反動的だった第一次オーストリア共和国時代に、ウィーン大学が行った数少ない進歩的人事の一つです。この人事が実現したのは、ウィーン市が大学に近代的な心理学研究所を提供し、心理学講座に国際的な研究者を充てることを条件にしたからにほかなりません。こうしてビューラー夫妻は、ウィーンの教員養成大学所属の心理学者にもなりました。彼らの指導のもとで行われた研究活動に加え、正確な科学的方法について教師たちを訓練する上でも重要な役割を果たしました。しかし、実践的な学校生活、組織や教育方法の問題解決においては、彼らの影響はごくわずかにとどまりました。

 しかし、教育委員会の教育方針を個人心理学と公式に結びつけることを不可能にした理由は、ビューラー研究所の設立だけではありませんでした。フロイト派は、このような独占に対して効果的に抗議するのに十分な影響力を持っていただろうし、アドラーは、フロイトほどではないにせよ、すべての保守派から危険な影響力を持つ人物とみなされていたのです。教育委員会にとって、荒れ狂う政治情勢の中で学校改革という船を操縦するのは困難なことであり、再び嵐を引き起こすのは賢明ではありませんでした。同じような慎重さが、個人心理学の足を引っ張ったのです。教育委員会は社会主義者の手中にあり、教育問題を厳密に超党派で処理するためにあらゆる努力が払われたのですが、政治的議論の渦中では、教育委員会の「公式」心理学は間違いなく派閥争いの心理学という馬鹿げた汚名を着せられていたことでしょう。

 

No.62 (3)教師のトレーニング

 

(戦後の荒れた社会情勢の中で、保守派寄りでも社会主義寄りでもない)中庸の道が選ばれ、アドラーは、ウィーン市教育研究所という教員養成大学の教員メンバーの一員になることを要請されました。アドラーの名声を考えれば、この措置は誰からも批判されることはありませんでした。教師向けの講義は強制ではなく、出席するかどうかは教師個人の自由だったからです。この個人心理学とウィーンの教師たちとの邂逅は、ひとたび確立されると、驚くべき方法で機能しました。学校当局を通じてではなく、自らの意志でアドラーのもとを訪れた何百人もの教師たちの考え方や教育方法に影響を与えることで、アドラーはウィーンの学校の発展に、比類のない稀な民主的な実践例として深く影響を与えたのでした。

 自分の仕事に困難さを感じている教師は、大抵の場合、教科のことでつまずくのではありません。情報やアドバイスは簡単に手に入ります。しかし、どのようにすれば子どもたちの注意を引きつけ、それを保持することができるのか、子どもたちを学習に取り組ませることができるのか、不穏と思われるこまごましたことを取り扱うことができるのか、問題のある子どもたちに対処することができるのか。ここで、教育コースに従うことによって助けを求めている教師たちは、ほとんどの場合、非常に賢明かつ有能な一般的な観察記録と一連のルールを入手することができますが、それらを特定の個別のケースに適用するのは簡単ではないかもしれません。あるいは、個々のケースを詳細に調査して困難の原因を明らかにするようアドバイスされますが、その方法は教師が教えるよりもはるかに時間がかかるだけでなく、家族問題への干渉につながる可能性があります。

 アドラーの講義を聴きに来た教師たちは、アドラーが個々のケースについて議論する中で ― すぐに聴衆のメンバーからもケースが提出されるようになりましたが―、教師自身の観察と、ごくまれにですが、親から与えられる情報を利用して実践する方法をアドラーが教えていることに気づきました。教師たちは、アドラーから教えられた方法によって、子どもの心の中に起きていることをしっかりと推測することで、子どもに対して教師が次にどんな手立てで臨んだらいいかの手掛かりを少しばかり得られるようになりました。

 教育研究所でのアドラーの聴衆たちは、人間の行動に関する新しい理論を学ぶと同時に、この理論を日常的な学校生活や家庭生活で即座に活用する方法を学びました。アドラーの講座で聴いたことを、彼らはその後、職員会議や保護者との懇談(グループや個人など)で話題にしました。そして、多くの子どもたちは、自分を取り巻く環境がより穏やかになったと感じました。それは道徳的な雰囲気を変える方法を知っている人であるアドラーが教育研究所にいたからです。

「責任」ということもまた、ここでの指針となる考えでした。アドラーは、「自由」というスローガンのもとで、青少年の非社会的な態度を許容することは決して勧めませんでした。同時に彼は、「子どもの反社交性があまりにひどく、教師の影響だけでは十分に支援できない」と考えられるようなケースは少ないと診断し、教師側の責任も強調しました。

 

No.63 (4)児童相談クリニック

 

 アドラーが多くの教師たちと接し、個人心理学の理論と実践に熟知した教師たちが個人心理学協会の会員となったことで、ちょうどこの時期にウィーンで開拓されつつあったこの分野において、アドラーの思想が主導的な影響力を持つようになる非常に良い機会となりました。「教育相談所」という名称のもと、このグループは、学校当局の同意を得て、完全なボランティアで、公立学校に児童相談クリニックを数多く開設しました。各クリニックは、このサービスを希望するいくつかの学校と協力しました。

 教師が提案し、親が同意すれば、教育上の問題を抱えた子どもたちをクリニックに連れてくることができました。このケースは、教師だけでなく親も同伴している場合にのみ受理されました。公的な圧力も宣伝も必要なく、このクリニックはすぐに教師や家族の信頼を勝ち得ることができたのです。最も深刻な問題は、クリニックがすべての申し込みに対応できないことでした。原則として、精神科医と教師が各クリニックで協力しました。アドラーは常に進んで助言を与えましたが、決して型にはまった方法を勧めることがなかったことがアドラーによる個人心理学の適用方法の特徴でした。〔そんなこともあって〕クリニックの各担当者や各チームは、共通の原則に基づいて独自の方法を開発しなければなりませんでした。

 アドラー自身も、これらのクリニックのひとつで働いていました。彼が自ら選んだ方法は、最初は大胆な実験に思えましたが、非常に大きな成功を収めました。アドラーは、クリニックでの自分の仕事をデモンストレーションとして利用することに決め、子どもと両親との面接を閉ざされた場所ではなく、限定された聴衆の前で行うことにしました。

 そのセッションは、クリニックに症例を持ち込んだ教師からの口頭または書面による報告から始まりました。アドラーはこの報告書を分析し、そこから子どもの性格や問題点、家庭の状況を描き出しました。その後、まず親と、次に子どもと面接を行いました。あるいは、子どもが何らかの「陰謀」を疑ってしまうと感じた場合には、アドラーは順番を逆にすることもありました。

 アドラーは人をうまく扱うことに長けていたため、子どもたちだけでなく大人たちもアドラーと一緒にいるとすぐに打ち解けました。だからといって、聴衆を軽視したり、すぐ忘れてしまったりするようなことはありませんでしたし、アドラーは子どもたちに "楽 "をさせたわけではありません。それどころか、貴重な時間の中で、彼は最初の質問や発言で困難の核心に迫ることを好んだものです。

 アドラーは決して権威的なアドバイスはせず、子どもと一緒に問題を研究し、困難を克服するための計画を立てる手助けをしました。そして、さらに次の面談の日を決め、子どもがその計画がどううまくいったかをアドラーに話すのです。最後に、アドラーは教師や両親にその事例のレジュメを渡し、しばしば、より一般的な問題を解明するための例として取り上げました。聴衆にとって、最初の報告から得られたアドラーの性格描写が、面接から得られた最終的なイメージにどれだけ近いかを見ることは、常に衝撃的なものでした。

 こうした児童相談クリニックの活動は、突然終わりを告げました。1934年にオーストリア・ファシストがオーストリア共和国を打倒した際、彼らの最初の目標のひとつは、学校改革とそれに関連するあらゆる活動を潰すことでした。教師や精神科医の自発的な努力によって作られたこれらのクリニックは、新たに台頭してきたファシストの新しい学校当局の命令によって直ちに閉鎖されたのです。

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